近 藤 久 雄    雑文 その1

 

「流れ流れて、細胞の世界で遊ぶ」

近藤久雄(細胞構造グループリーダー)

(「三菱化学生命科学研究所ニュース2005年」より)


 昨年10月から赴任し、それから何度か自己紹介の一文を書けとのご依頼を頂いておりましたが、何かと理由をつけて逃げておりました。それも半年以上経つと逃げ切れずに現在書き出しています。英国出張帰りの飛行機の中で書いておりますので、どうか乱文をご容赦下さい。

 私は1988年に京都大学を卒業し、そのまま文部教官・助手になり京大に居残りました。大学時代は殆ど琵琶湖に浮いてボート(競艇ではなく漕ぐ方ですが)にうつつを抜かしており、引退後はコーチ業にいそしみ、自慢ではありませんが、授業には殆ど出席しませんでした。時に大学に行っても、生協で食事をして後は図書館で本を読んでおり、試験の時に初めて教官の顔を見るということも珍しくありませんでした。思えば、そのような者を卒後直ぐに助手に採用する大学も大学ですが、研究の素人でも直ぐにポストが得られるという優雅な時代ではありました。京大助手をしながら「細胞萎縮と酸化的ストレス」で学位を取りましたが、その間に、酸化的ストレス下でゴルジ体構造が消失することを観察し、細胞内小器官の形態に興味を持ちました。と言えば格好良いのですが、当時は残念ながら、それを研究する技術も切り口も無く、「何かおもろいな」と漠然と感じていたに過ぎないのが実情です。

 京大助手を7年ほど勤めあげた頃、文部省在外長期研究員として英国王立癌研究所の Graham Warrenの所に留学しました。Warren研ではゴルジ体の形態形成を研究することになり、初めて細胞生物学の世界に遊ぶことになった次第です。これが実は私にとっての最初の海外旅行であり、行った当初は本当に色々ありました。ヒースロー空港で掴まされた偽札のおかげで、警察に引き渡されそうになったり、まあ色々と有りました。研究所でも大変でした。英語は聞けない喋れないし、研究テーマはもとより実験手技まで全部変わりましたので、泣きそうな1年間を送りました。最初の1年間は、毎日のように日本に帰りたいとばかり思っておりました。1年が過ぎる頃から徐々に仕事が進みだして論文も出だしましたが、やはり何時も日本に帰ってきたいと思っておりました。ところが何の因果か、2年半が過ぎて本当に日本に帰ろうと日本での就職活動を始めた頃、ボスのGrahamから英国に残って独立するよう勧められました。正に青天の霹靂で、これには驚かされました。当時は(今でも余りたいして上達してないのですが)英語でのコミュニケーションに大きな問題があり、「こんなんで英国で独立していいんやろか」と本気で悩んだものです。その後1年半ほどは、現地の英国人に混じって、英国のシステムに完全に乗っかっての職探しとグラント獲得競争に駆り出されることになります。その間は、日本でもしたことがないjob interviewや条件交渉を、しかも英語でしなければならず、今でも思い出すと赤面する様なことの連続でした。ただ、interviewでのやり取りを通じて、英国のサイエンスに対する考え方が分かり、現在の自分の研究に対する取り組みに大きな影響があったと感じています。結局の所、研究環境の観点からケンブリッジ大学CIMR (Cambridge Institute for Medical Research)で独立することにしました。思うに、日本で外国人が独立する困難さを考えたとき、英国の寛容さに今でも日本との大きな違いを感じざるを得ません。

 さて先ずはケンブリッジ大学で独立したものの、本当の苦労はその後からでした。研究機器の購入・共同研究者の確保と交渉・研究支援サービスとの交渉・他研究所のラボとの研究上の競争・棲み分け交渉等々と苦労が山積みでした。中でも人材確保、つまりポストドクの確保では特に苦労しました。名もない新設のラボでボスが日本人では、まともなポストドクは先ず来ません。英国にも日本にも人材確保のコネがないため、本当に苦労しました。余り優秀とは言い難いポストドク相手に、なだめたり怒ったりしながら、苦しい低空飛行を続けてきた感があります。結局は自分自らの手を動かすのが一番手っ取り早くかつ信頼できるので、ついつい自分でやってしまったことが多かったような気がします。言うならばオーナー、監督、コーチ、エースピッチャー、4番主砲、マネージャー、広報、渉外、会計を全て一人でこなしていたわけで、大変でしたが、この経験を通して研究の世界で自分は生きていけると初めて確信が持てた気がいたします。小さいラボゆえに、研究の進め方や戦略にも相当気を遣いました。人数が少ないので空振りは出来ないが、小ネタはしたくない。そこで、他が避けるような難しいプロジェクトを敢えて選んで、それにラボの全エネルギーを集中し、技術的な高さと機動力でねじ伏せるという作戦を採りました。従って、自分はもとよりポストドク諸氏にはかなりのhigh standardを課して相当に無理を言ったかもしれません。しかしそうでなければ、我々のような弱小ラボが大規模ラボと対等に張り合うことは無理だったと考えています。

 ケンブリッジ大学に5年半程居た後、昨年10月に三菱化学生命科学研究所にやって参りました。10年ぶりに見る日本の研究環境は大きく変わっており、非常にとまどっています。10年前にはもっと手作りの泥臭い研究が主流だった気がしますし、学生やポストドクの意識レベルも高かった様な気がします。確かに、現在の日本では、驚くほどの種類のキットが使われて実験がスマートになっており、若い人の知識量も増えているかのように見受けられます。ただ、10年前の日本や現在の英国と比べて、土台となる基礎的な技術力や思考力が弱くなっており、かつ意識もかなりchildishのような気がします。このままでは日本のサイエンスが薄っぺらくなるような気がしてしまうのは私の杞憂でしょうか。そのような風潮に敢えて背を向けるというわけではありませんが、私の研究室では以下のようなことを強く勧めています。

1. 世界中どこに行っても通用する技術を身につける

2. 貧乏でも出来る研究

3. 手作りの、他ラボが出来ないサイエンスをする

 現在の日本ではやや時代遅れと言われるかもしれませんが、研究者の顔が見えるような個性的かつ重厚な仕事を、これからも続けていきたいと願っております。以上、よろしくお願いいたします。

 

大学1年の頃、琵琶湖・瀬田川の艇庫前で